心のビタミンバックナンバー

131〜140


No.131 神の器を

  主よ。もし、あなたが、はしための悩みを顧みて、私を心に留め、このはしためを忘れず、このはしために男の子を授けてくださいますなら、私はその子の一生を主におささげします。
   I サムエル1・11

 フラー神学校の教授フリントン博士は、「自分が今このようにして用いられているのは、自分の知らないところで二十年以上も自分の献身のために祈り続けてくれた母の祈りがあったからだ」と話しておられました。
 ちょうどこのみことばのハンナのように、幼少の頃の博士を神にささげ続けておられたそうです。
 アブラハムも、晩年に与えられたひとり息子イサクをモリヤの地で神にささげました。
 神の手に一度明け渡された者の生涯は、確かに違います。神の手にゆだねられた者の生涯には、神ご自身が責任をもち、神の器としてその時代の中で特別に用いられるのです。
 時代は神の器を必要としています。そして私たちには、次の時代の神の器を献身の信仰をもって生み出す責任があるのです。



No.132 時代に生きる

 一方、少年サムエルはますます成長し、主にも、人にも愛された。
   I サムエル2・26  

 「一方」とあるのは、その時代を指しています。暗く希望のない時代でした。
 祭司エリは年老いて、その息子たちといえば、主を恐れず不品行な生活をしていました。そんな時代にサムエルは置かれ、めきめきと頭角を現しつつあったのです。時代が新しい神の器を要求していたともいえましょう。
 ヨセフは大きな飢饉が迫る中、一歩先にエジプトに送られ、父ヤコブとその一家を救うのみならず、やがてイスラエル民族のエジプト脱出という神のみわざに通じる要となる時代に置かれて用いられました。
 エステルも激動の時代に捕囚の憂き目に会い、養父に育てられましたが、ついには当時の異国ペルシヤ帝国下で王妃としてユダヤ民族を救う役割を果たしました。
 時代は神の器を要求し、神の器はその時代の中で用いられます。私たちはこの時代のどのような場面に、またどんな役割で神のみわざに参画するよう導かれているのでしょうか。



No.133 徹底して従う

 主が来られ、そばに立って、これまでと同じように、「サムエル、サムエル。」と呼ばれた。サムエルは、「お話しください。しもべは聞いております。」と申し上げた。
    I サムエル3・10


 夜中に、少年サムエルは主に三度呼ばれ、四度目にみことばを示されました。暗く神との交流が途絶えた時代、主はサムエルを個人的に呼ばれ、サムエルはまず主にこたえ従うことを学んでいく必要があったのです。
 神に用いられる人は、まずこの点を徹底して身につける必要があります。
 ダビデは下積みの時代、荒野をさまよいながら、神に拠りすがることを体得しました。ペテロは主を三度否みましたが、後には三度「あなたはわたしを愛しますか」と復活の主に問われ、命を賭してもキリストに従う表明へと導かれました。
 また、何よりキリストご自身が、公の生涯の直前には荒野で三種類の激しい誘惑を受けながらも、また十字架の直前には、ゲツセマネの園で苦しみながらも、徹底して主のみこころに従う決意を表明されたのです。



No.134 暗唱聖句

 あなたが家にすわっているときも、道を歩くときも、寝るときも、起きるときも、これを唱えなさい。
   申命6:7

 私たちの教会に、ちょっと珍しい方がおられます。このご婦人、Wさんはとにかくよく聖書の暗記をなさるのです。1節2節ではありません。1章ずつ丸ごと、たとえば詩篇1篇から3篇までといった具合です。しかも、「です」「ます」に至るまで、完璧なのです。10分や20分は朝飯前、おそらく1時間2時間でも、まるで朗読しているかのようにすらすらと暗唱されるのです。
 彼女は、伝道師でも牧師夫人でもありません。信仰歴も、バプテスマを受けてまだ数年ですし、何か特別な教育を受けたわけでもありません。年齢も、決して若いとはいえないのです。
 全く頭が下がります。私など牧師とはいっても、暗唱聖句ではまるでかないません。神学校を出たか否かの問題ではありません。昼も夜もみことばを慕い、口ずさむか否かの違いなのです。



No. 135 聖書の味わい

 まことに、みことばは、あなたのごく身近にあり、あなたの口にあり、あなたの心にあって、あなたはこれを行なうことができる。
   申命30・14

 ある牧師が、「聖書がどんなに難しいといっても、日本語に訳されているのだし、仏教のお経などと比べたらはるかに理解しやすい」と話しておられました。
 先にご紹介したWさんも、別段聖書の学びをしたわけでもないのに、みことばそのものを何度も何度も反復し、一語一語をかんで含むようにして味わい、自分のものとしておられるのです。
 毎晩、必ず一回はこれまで暗記したところを繰り返すのだそうです。さらに新しくチャレンジするみことばを、朝に夜に唱え、紙に書き写しては繰り返し繰り返し唱えて心の中に刻み込むそうです。すると、みことばそのもののもつ感動が心に満ちて、暗唱聖句の醍醐味を十二分に味わい知るのだとか。
 聖書の近辺や、聖書に関する学びからは味わえない、聖書そのものの味わいが、暗唱聖句にはあるのです。



No.136 真摯な姿勢

 私がきょう、あなたに命じるこれらのことばを、あなたの心に刻みなさい。・・・・・これをしるしとしてあなたの手に結びつけ、記章として額の上に置きなさい。
   申命6・6〜8

 私たちの教会では、1ヶ月先の礼拝プログラムをあらかじめ印刷して、教会員に配布しています。ですからある方はl、大切な礼拝のために、予告されている聖書の箇所を読み、讃美歌を賛美してから礼拝に来られます。
 ある時、ひとりの方が、「次週の礼拝メッセージの聖書箇所を、暗唱して礼拝に臨むようにしました。すると、同じメッセージを聞いても、前よりも2倍も3倍もの感動を受けるようになりました」と打ち明けてくれました。
 聖書箇所といっても、1節や2節ではありません。1段落、時には1章にも及びます。私はなんと幸いな牧師でしょう!
 何の準備もせずに、礼拝に出席することのないようにしましょう。みことばに対する真摯な姿勢が、みことばからくる感動を広げるのですから。



NO.137 逆境の中でも

 私たちは、四方八方から苦しめられますが、窮することはありません。途方にくれていますが、行きづまることはありません。
      II コリント4・8

 コンクリートのすきまに割って入るようにして咲く草花を見て、思わず感動したことはないでしょうか。こんなところでは生きられないだろうと思われるような場所で、それでも精一杯芽を出し花を咲かせて、命の証明をしている草花たち。
 いつも見守られ、世話をされながら咲く温室の植物も美しいですが、だれにも注目されない場所で、多くの逆境を跳ね返すようにして生きている雑草には独特の味わいがあると思います。
 日本では、クリスチャンとして存在するというだけでいろいろと困難があることでしょう。まして、旗色を鮮明にして積極的に伝道するとなると、相当に強い風当たりがあります。
 けれども私たちは、そこでキリスト者としての花を咲かせましょう。そんな状況下でこそ、強烈なキリストの香りを放ちたいのです。



No.138 逆風を突いて

 私たちは勇気を失いません。たとい私たちの外なる人は衰えても、内なる人は日々新たにされています。 
              II コリント4・16

 強烈な風の吹くある日、なにげなく空を見ていましたら、強風にあおられて宙を舞うゴミやビニール袋やらに混じって、逆風に突進して進もうとしている1羽の鳥が目に入りました。 
 猛烈な嵐の中を、それでも流されずに前進を試みています。とはいうものの、実際にはほとんど止まっているも同然に見えました。進もうとしても進まない、後退せずにその場にとどまっているのが精一杯といったところでした。
 鳥のこととはいえ、それは感動的な光景でした。有無を言わせずすべてのものをなぎ倒し、従わせていく大きな力に抵抗して果敢に闘いを挑む姿は、どんな時にも感動を与えます。
 私たちが少数でありながらも立ち上がり、逆境を跳ね返して天の御国を目指すならば、その姿はきっと神の目には尊いのに違いありません。



No.139 真の敵はだれか

 キリストによって、からだ全体は、1つ1つの部分がその力量にふさわしく働く力により、また、備えられたあらゆる結び目によって、しっかりと組み合わされ、結び合わされ、成長して、愛のうちに建てられるのです。
     エペソ4・16

 「教会が分裂して喜ぶのはだれか。サタンだ」とある方が言われました。地上のキリストの最前線基地をまた1つ骨抜きにした、と言って喜ぶのは、確かにサタンです。
 ところが、私たちはこの当たり前のことを、1度糸が絡み始め、教会内の問題が膨張し始めると、悪魔の目つぶしにでもあったかのようにして、しばしば見失ってしまうのです。1つの教会の中で、お互いが敵であるかのように錯覚して争い、ついには地上の灯台であるはずの教会が、力を失って骨抜きの状態となっていく・・・・・。こんな時、喜ぶのはサタン、悲しむのは父なる神です。
 サタンの術中にはまってはいけません。私たちは真の敵がだれなのかを見極め、地上にキリストのからだなる教会を愛のうちに力強く建て上げたいものです。



No.140 教会の証し

 神は、いっさいのものをキリストの足の下に従わせ、いっさいのものの上に立つかしらであるキリストを、教会にお与えになりました。
   エペソ1・22

 牧師になりたての頃、ある電話を受けましたら、受話器からキリスト教会を罵倒する声が響いてきました。「どこのキリスト教会も力がなく、情けないな。昔から変わり映えもせずに、同じ建物で同じメンバーでいったい何をやっているんだ!」 
 名を名乗らない不遜な声には、初めから敵意があらわでした。
 その時、私は決意したのです。そんなことを言わせておいてはいけない。そのために、私はこの土地の教会に遣わされてきたのだ。「なるほど教会にはキリストがおられる。そしてそのキリストのうちにはいのちがある」と、この土地の人々の目にはっきりとわかる形で証しを立てていく使命があるのだ、と。
 キリストにいのちがないなどと言わせてはなりません。逆に私たちは、「彼にこそいのちがある」と、キリストの教会を通して力強く証ししていきたいと思います。